猫みたいに生きようぜ◎

すずにゃ は じぶん を ぜんこうてい した!

人を傷付けたと焦ったとしても、1秒でセカイは変わる。

 

人を傷つけてしまった!

 

という出来事がありました。

 

瞬時に、

傷つけた自分を罰したくなりました。

 

と、同時に反応したのが、

 

「本当は嫌なのに受け入れて、

裏で悪口を言っている、

非常に卑怯な人だ」

と思われてしまった!

 

という反応でした。

 

「本当は嫌なのに受け入れて、

裏で悪口を言っている、

非常に卑怯な人だ」

と思われてしまった!

 ↓↓

だから!

傷付けた自分は

罰されなければならない!

反省しなければならない!

悔い改めて

改心しなくてはならない!

相手の機嫌を私の立場を

リカバリしなければならない!

 

と頭のなかでサイレンが

ウーウー鳴り始めました。

けど。

 

ちょ、まてよ。

それ本当? 

てか、わたし、

そんなに卑怯な人だっけ?

 

瞬時にサイレンモードより、

シフトしました。笑

 

そもそも。

 

本当は嫌なのに受け入れて、

→嫌とか判断する以前に、

明確に嫌の基準はわたしの中にあるから、

相手の姿勢次第で決めようと思ってたから、

嫌々受け入れる以前の話。

 

裏で悪口を言っている、

→こうならばこうしよう、

ああならばこうしようと思ってると、

明確にわたしの嫌を表明しただけ。

ただああならばの方を取る人多いから、

こっちの確率は高いだろうなと思っただけ。

そこに悪意はない。

 

非常に卑怯な人だ

→卑怯かどうかは、相手が評価することで、

わたしは卑怯なことをしたつもりは全然ない。

というかわたしは卑怯な人である前提を

受け取りたいの?

 

と思われてしまった!

→てか相手に未確認〜♬

ほぼほぼ相手の言葉から受け取った

わたしの勝手な妄想じゃんw

 

ということなので、

相手の言葉から、

わたしが読み取りたいように取り、

わたしが受け取りたいように

受け取ろうとしたわけです。

 

今までの習慣で、

「わたしは卑怯なひどい人」

と人から思われているという前提を

ついうっかり受け取ろうとしたのです。

「わたしは卑怯なひどい人」

と思われて、

・他人や自分に責められること

・わたしが悪いのだから、改心とするために努力する

ことをOKとしているので、

すんなり受け取って、

「わたしは卑怯なひどい人」

になろうとしたんですねwww

 

おい、ちょ、待った!

 

「卑怯なひどい人」

にわたしはなりたいんですかっ?!

 

「卑怯なひどい人」

って本当に相手に思われてるんですかっ?!

 

「卑怯なひどい人」=わたし

になりたいんですかっ?!

 

え、なりたいわけないじゃんww

ふつーに嫌でしょうwww

しかも本心では卑怯なつもりないのに、

なんで卑怯な人にならなきゃあかんの?w

 

なんでOKしてんのさwww

 

しかも誰もなにも責めて無いし、

本当に相手に、

そう思われたかどうかわからないのに、

その前提で話を進めようとしてるしっ!笑

 

わたしによる

わたしのための

壮大な一人コント!

 

そこに気付いたので、

爽快に、受取拒否しました。

 

わたし≠卑怯なひどい人

 

「わたし=わたし」でしかなく。

わたしの中での真実は、

「卑怯なひどい人」

というつもりはまるでない。

 

「卑怯なひどい人」という評価は、

どこかにあるのかもしれない。

どこかの誰かはわたしのことを

そう評しているのかもしれない。

自分でどこかでそう評することも

あったのかもしれない。

 

でもその評価とわたしを

くっつけなければならない

必要性はまるでない。

 

そしてわたしはそれを望まないし、

もう不要な思い込みなので、

受け取りませんでした★

 

それにだね、

「卑怯なひどい人」

と思われてもぜんぜんよい◎

 

その人はわたしのことを

そう思ったのなら、

たとえわたしにそのつもりがなくても、

その人にとっては

そういうわたしなのだろう。

 

だからと言って、

その人の思うわたし

になる必要はないし、

その人の思うわたし

を訂正してもらう必要もない。

そこは各々自由だ。

 

誤解する自由もある。

誤解される自由もある。

 

真理はわたしはわたしでしかないってこと。

わたしまで自分自身をそう評さなければ、

他人の評価はわたしに直結しない。

直結させてるのは、自分自身なんだよね。

 

って小難しくなっちゃったケド。笑

 

わたしは卑怯なひどい人のつもりは毛頭ないし、

卑怯なひどい人だと一瞬感じたことは、

今までの習慣によるほぼ妄想だし、

わたしはそういう人だと採用する必要はない。

 

それに本当に相手が傷付き、

そういう私だと責めているかどうかは

本人以外わかんないので、

わたしが一瞬感じた、

わたしは卑怯なひどい人という前提は、

わたしは採用せず、

でも相手がもしもそう思っていたとしても、

訂正もすることもなく、

わたしはわたしのままでいました。

 

相手がどう捉えるかは自由。

そしてわたしはこう思っている、

と伝える自由もあるし、

それをいかように

捉えられてもいいという自由もある。

 

それがわたしの中の正解だと、

一瞬のうちに、

そう決めました。

 

そしたら、

わたしが傷付けたと思った人は消え、

罪人のわたしも消え、

 

自分のポリシーを

しっかり持ったわたしと、

自分で覚悟決めようと

しゃんと立っている人がいました。

 

わたしの意識ひとつで、

今までの代わり映えのしない、

ただの被害者・加害者の関係に

落ちぶれるところでした。

 

自分を加害者に、

相手を被害者にしない。

 

責任のありかや善悪を決めるだけじゃ、

何も変わらない。

自分はどうありたいのかだけを

しっかり持つことが大切。

 

やはりわたしは、

美しくきれいな世界を見たく、

可能性を存分に羽ばたかせたいし、

選択肢が多く、

自分自身で納得の行く選択をしたい。

それが心地よいと思う。

 

今までの被害者・加害者の関係では、

どうしても「罪」がついてまわるし、

可能性は広がらないし、

選択肢は少ない。

 

その視点では、

わたしのありたい世界でいられないから、

ひとつひとつ、

こうして気付いて、

自分の意識だけを訂正して。

 

相手も自由。

わたしも自由。

 

そうして手放した時に、

セカイは変わっていくのだなと、

改めて思いました。